貧乏見たけりゃ猿払へ行きな

「貧乏見たけりゃ猿払へ行きな」と言われるほどの有り様であり
どん底にあえいでいた浜の漁業者を救ったのはホタテの増養殖漁業でした。

「組合の記録などをみると、ホタテがもっとも猿払の海に合った産物なんですね。
明治時代からこの沿岸には干し貝柱の製造技術があって
全国の7割ちかくを生産し、香港などに輸出していた実績もあります。

そこで、試験研究機関や先進漁協が開発している
栽培漁業の技術や種苗(養殖の種にする1年生のホタテガイ)の生産状況などを調べて、
これしかない、と腹を決めたのです。

それ以外に考える余裕などなかった。
端から見れば気狂いじみていたかもしれませんね」

と太田組合長は笑って語ります。

笠井村長は

「ホタテは2度カネを生む産物だ。
海から揚げてカネになり、加工してまたカネになる。
加工場を造れば建設業者もうるおうし、
主婦たちの雇用も促進される」

といって、不安な面持ちの議員たちを説得したといわれています。

その年、成長状態を調査するため130個の育成貝を揚げてみると、
28個しか生き残っていないのです。

しかし、このときの太田組合長は、
「生存率が少なければ、大量の種苗を放流して大きな群れをつくればいい」
といって、動じなかったといいます。

その翌年から、猿払では6000万粒の種苗を買って大々的に放流しました。

組合の自己資金に加えて、道から8000万円の助成金、
系統機関からの融資1600万円、
それに国の過疎地特別振興対策事業の補助金4000万円も受けられるようになり、
総事業費4億2000万円を投入する
大規模な放流事業が村の命運をかけてスタートしたのです。

1974年(昭和49)、待望の初水揚げです。
「八尺」と呼ばれるけた網で、直径13センチほどに成長した3年貝がザクザクと引き揚げられます。

そのときの喜びは、とうてい言葉に尽くすことのできないものだったに違いありません。

その年、1674トンが水揚げされ、生鮮で、
あるいは加工品となって、全国の市場に出回っていったのです。

その翌年は4300トンを超えました。
そして、1979年(昭和54)からは、3万トンちかくがコンスタントに水揚げされるようになりました。

猿払の海は、よみがえったのです。

「いま、猿払の海では天然貝の再生産が起こっています。
ほかの養殖地帯では稚貝を篭に入れ、海に垂れ下げて育てるから、
入れた分の70%前後の歩どまりでとれるだけですが、
ここでは放流した以上の数量を水揚げしています。

海底の状態を調べてみると、放流した貝と共存して
天然貝が自然発生しているのです。

なぜそんなことが起きたのか理由はわかりませんが、
天然の資源は確実に回復しているのです」
と、富田さんはいいます。


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